旅をする知

ソーシャルワーカーとして、旅をするように学ぶ。それは形を変えても生き続ける。

親の高齢化と知的障害のある人の地域生活というテーマは巨大

初、東洋大学ソーシャルワーク学習会。
「親の高齢化に伴って地域生活が困難になった知的障害のある人をどの様に支えられるか」
自宅があるのに地域で暮らせないというジレンマについて。
大きく重要なテーマ。
それを、文京区を題材に、教授、院生、学生、ソーシャルワーカー、行政、区議、相談機関、施設に関わる方、自立支援協議会参加者、…いろんな人たちで考える。

こうゆう多様性のある勉強会、久しぶりだ。
何が正しいのかなんていう、凝り固まった自分の中のイメージやこだわりは一回横に置いといて、色んな考えやアイディアを吸収したいよー。
狭くて固い視点を捨て、柔らかくなりたい。
学ばせていただきありがとうございました。

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東京シューレ見学

東京シューレフリースクール)の見学にいってきた!
学校に居場所のない子の担当ケースが増えていく中、紹介するなら自分の目で確かめなきゃ!ってことで、今さらあの有名な東京シューレ(王子校)へ。

不登校でもフリースクールをつかい、小中学校などに在籍していれば出席扱いになるなど、制度的にはなんとなく知ってたんだけど、
定期も学割で買えるようになったとか、生活的な細かい部分を最近忘れてたことなど反省。

支援者として、気をつけなければならないことは、シューレ=どの子にも良い!って訳ではないということ。
やっぱり対象者は、不登校だけどある程度心のエネルギーが溜まってきていて、外に出たい志のある子たち。
人と関わりたい気持ちがあり、
ガヤガヤうるさい所でも、楽しめる子たち。
本人の意思がなく、親が無理やり行かせることは長続きしない。

ただ、はじめはいくことに気の進まなかった子も、見学で「なんだここは!学校っぽくない!楽しそう!」と思ってもらえて行けるケースも多いので難しいところ。
実際に行ってみないと、紹介だけでは本人のスクールという恐怖の先入観は強く変わらないことが多い。
大人が思う以上に、不登校になった子どもたちは学校への恐怖は大きいことがあるので。

また、シューレの生徒たちの話を聞けたことも良かった。
たまたまお話ししてくれた3人は、全員不登校原因がいじめにあった。
今でも震えながら、話してくれた。
普段のシューレでの生活は、やりたいことを追究でき、めちゃめちゃ楽しそうだった。
生徒が中心、話し合いでルールを決める、イベントの実行委員会やサークル的なものもたくさんある中で、受け身ではなく自由で、自分の考えを持てることに喜びを感じていた。

親として想定される葛藤は、
シューレは学習を強制する場ではないので、学年相応の学習をフォローしてほしい親には辛いと思う。
社会のレールから少し外れること。
親は学校教育を普通に受けた経験しかない方が多いので、本人がやりたいと思えるまで学習を押し付けないでいられるか、本人が元気になった時に、やりたいことの追究が遊んでばっかりとならないか。
もちろん、本人たちもそこは怖がっていることもある。
でも、高校認定試験だってあるし、学歴社会以外でも生きて行ける方法はたくさんあるし、とにかく色んな選択肢が当たり前になるといい。

一般の参加者から、
シューレのように自由で守られた環境だけにいると社会に出た時に、適応できなくなってしまうのでは?
という質問も出たが、
私は、まずは全ての人にそもそも必要な心のエネルギーや承認や自信や「自分は自分でいい」と思える気持ちを満たしつつ、
他者との関わりの中で、得意不得意などしっかり自己理解できるようになり、
将来は自分に合った選択肢(生きやすい環境)を選べる・つくれるスキルが身につけば乗り越えられることもあるんじゃないかと思った。

また、シューレの生徒がつくったDVDも買いました。おもしろそう。
不登校の子でシューレ感が合う子には見せてあげたい。

ちなみに、家庭学習の制度、ホームシューレというものもある。
フリースクールにも出られないレベルの不登校の子たちのため。
ただそれは、子どもの「学習を自分でしたい意思」が前提なので注意。
ひきこもり→家庭学習というわけではない。押し付けは続かない。

いつか新宿校にも、私立中学校である葛飾校にもいってみたい。

http://www.shure.or.jp

 

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市が障がいの者千人雇用をやることについて

岡山県総社市の、障がい者千人雇用事業 1000人達成記念フォーラムに参加させていただきました!】

 

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3年前くらいかな、この政策についての記事が出てから、ずっと総社市ってすごい。市長や職員さんにお会いしたい。と思っていました。
http://toyokeizai.net/articles/-/34321?display=b
自分の周りの人にも、障害や政策の話になると勝手に総社市の市長が頑張っててさーって話をしまくっていました。

「この子がいくらがんばっても、社会は迎えてくれないだろう…」という障害のある子と親御さんの絶望から、社会の居場所をたくさんつくってきた総社市
社会に出る前、出た後の支援を全面的にサポート。

ずっと、どうやって達成したのか、
他の市ではどうしたらやれるのか、
市長のリーダーシップも大きく、じゃあどんなリーダーならできるのかとも考え続けていました。

そんな市長と直接お話することができ、
障がい者千人雇用センターの職員さんや、立ち上げに関わられた方々の思いのつまった話や魅力的な苦労話も飲みながらたっぷり聞くことができ、
感動しました。

実際、市長はめちゃくちゃおもしろい方でした。
人間味があり、ビジョンが明確にあり、時にはめちゃくちゃ厳しく、時にはぶっ飛んだところもあり。
周りに嫌われる覚悟でも1つのビジョンを強く追究し、はじめは無理だと言われても、だんだん周りがついてきて、最終的には超おもしろいチームになっている。

私はまだそのポイントが何かをうまく言葉にはできないけど、学んだことを無理やりしぼりだしてみる…

難しいけど絶対に達成したい目標を明確に定める大事さ。
圧倒的におもしろいと思い続けられる方向性でやること。
職員さんの日々の市民への細やかな対応や思いやりや共感力、
その1つの声でも大切に、
みんなが自分ごととしてやること。
そのために思いつく限りの事全てやってみて、たくさん失敗しながらも諦めず、つくり上げ続けて行くこと。
縁を大切にすること。
一点だけではなくライフステージとして包括的にやっていくこと。
膝を付き合わせアナログでやること。
他にもたくさん…

つまり、みんなが人として大切にしたいこと、生きていくために必要なことの根本たちだった。
簡単に語れるスキルじゃなく、なんというか、本当に、結局、人間性

それがこんな形に。
http://www.city.soja.okayama.jp/s/fukushi/shogaisha/senninkoyou/syuugaisya_koyou_toha.html

また、総社には障害者雇用だけではなく、本当にライフステージ視点で、魅力的な政策がたくさん。
先日は、4歳児のスーパー包括的な発達支援なども学ばせていただいたし、
今回は学校の不登校対策以前の、だれもがいきたくなる学校づくりについてもヒントをもらった。
http://www.city.soja.okayama.jp/s/gakkokyouiku/kosodate_kyouiku/gakoukyouikuzenpan_tennyuugaku/daremogaikitakunaru.html

こんなに市政で全面的に福祉ができるのって、予算を使えるのってなんでだ?…ってゆう疑問は何度も聞いたけど、たくさんの要素があり、まだ私も他の市に生かせるようにまではうまく言葉にできないので、今後の課題。

また、学んだことをどう次につなげるか、発信方法などは模索中ですが、日々お会いする方々に自分の言葉で語れるよう、そして自分自身の姿勢に反映できるよう、よーく復習して行きたいと思います。笑

 

いのちのはじまりという映画を見た

『いのちのはじまり』をみました。
もちろん、子どもだけでなく母親の支援の必要性やコミュニティで村としての多様な関わりの大切さも分かったけど、
一番考えたことは、子どもと大人が幸せに育つために、母親、父親問わず、家族や企業や地域で、子どものためにいかに環境を柔軟に変えることができるか…なのかなあと。
目の前の少ない選択肢だけにこだわることなく。
それも楽しみながらというのが重要なのかもしれない。
実際はそんな簡単なことじゃないんだろうけど、働き方や生活スタイルを変え、子どもとの時間がたっぷりとれた結果、幸せそうな人たちを見てたらそう思った。

今日は、トークイベントで、ファザーリングジャパンの安藤さんのお話をお伺いし、
日本でも、いかに子どものために働き方を柔軟に変えてきたかを学んだ。
企業の育休のあり方や働き方を変えるのも、また企業に縛られずに個人で働くのもおもしろい。

大人の幸せも考えるのが楽しくなってきたこのごろ。

 

http://www.uplink.co.jp/hajimari/

 

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アフリカへの勝手な偏見を壊す

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『絵はがきにされた少年』(藤原章生)という本を読んだ。

 

めっちゃむねがいっぱい。

私が途上国で感じた、外からの偏見やイメージへの違和感を、じわじわ言語化していた。

 

メディアがつくった偏見、貧困を外から見る偏見、幸せへの偏見、孤独への偏見、民族対立への偏見、援助の偏見。

世界は偏見によってつくられている。

 

忘れたくなかったので、メモ。

 

・あるカメラマンの死

「ハゲワシと少女」

「母親がそばにいて、ポンと地面にちょっと子供を置いたんだ。そのとき、たまたま、神様がケビンに微笑んだんだ。撮ってたら、その子の後ろにハゲワシがすーっと降りてきたんだ。あいつの目の前に。」

 

・絵はがきにされた少年

「やっかいなのは、はっきりと言い切れないことに、意味づけを求める人が結構いることだ。自分で納得できないことは胸の奥につかえる。ならいっそのこと、こうゆう意味だと勝手な解釈を加えて、使えたものを流してしまう。その方が楽だ。だが、私は分からないことは胸につかえたままでいいではないか、と思う方だ。現実を現実として放っておく方だ。答えなどないにしても、いずれはそこに一歩近づくときが来る、と思うからだ。」

 

・老鉱夫の勲章

「働く、仕事を持てることが、こんなにも幸せなことだったのかと、わかったんです。そうです。我々は幸せだったんです。奴隷なんかじゃありません。」

 

・お前は自分のことしか考えていない

「助けるということは無償のようでいて、実は助けられる側に案になんらかの見返りを求めている。援助には目には見えない依存関係が隠れている。」

「漠然と無数の人々への援助を考えるよりも、救うべき相手をまず知ることから始めなければならない。」

 

・ガブリエル老の孤独

「ツチとフツの違い?そりゃ、神様だけが知ってる謎ですよ」

「例えば、いつも角を突き合わせている牛が二頭いるとするでしょ。その牛たちに、お前たち、なんでケンカしているんだ。そう聞くようなものですよ」

「殺し合い。それは風のようにやってくる。雪のようには来ない。」

 

また読みたい。

 

 

視点の環境依存に気付く

はっとした。
これまでの療育での3年間は子どもと親の視点に徹しようとしてきた。しかしこれからは教育委員会や先生との距離が近くなり。無意識に学校視点にもなりつつあるのか…?
最近の多くは、学校の授業の行動観察、校内会議、教育委員会主催の先生たちと研修。
それはそれで、めちゃくちゃ勉強になるし楽しい。

ただ、驚くほど自分の視点が今いる拠点に依存することがわかる。
そもそも、学校は時間があまりになさすぎて、子どもたちの情報が、端的な「気になる子」というラベルでしか伝わってこない。
その、気になる子もいすぎて、頑張って共有する時間を取っても一瞬。
その一瞬の時間をもらうのにも、先生たち良い人たちすぎて、いつも頑張りすぎてて、過労死レベルすぎて申し訳なさしかない。
そして、その誰にも余裕がない環境だからか、思ってたより、すぐに薬につなげられてた子が多すぎる。あのー…ちょっと、支援方法をゼロから考え直して私がしばらく直接見ても良いですか?っていいたくなる。

普通級での困り感の発見→支援検討→環境調整→必要なら支援員か通級指導→普通級での定着支援→評価とかを全部ワンストップで自分がやれたらいかに幸せなんだろう…と思いつつ、それは甘えで、そんなスムーズなワンストップのようなチームを作ることが自分の役割。チームの力を高めることが価値のあること。難しいけど頑張ります。

障害は医学モデルではなく社会モデルでありたい。
そこを考え始めると、子どもの環境だけではなく、先生達の働く環境や、親の働く・子育て環境や…もー、みんなそれぞれ頑張ってるし生きづらいし、世の中環境による障害ばっかりで、わけがわかんなくなるね。
周りが見えれば見えるほど、私の前の口癖の「子どもの気持ちはどうなの?」「この子は本当にそれで楽しいの?」「この子は何に困っているの?」ってゆう正論が封印されていく。

それでも、何度も何度も、子ども視点に戻り、環境の情報を客観的に整理しなおし、ストレングスを見つけるところからスタートする。
子どもも、親も、先生も、全員大切な人たちだから、みんなで一緒に幸せになりたい。
それを、ただの正論を突きつけるのではなく、みんなで一緒にベターを考え、バランスをとって前に進めるように。

 

https://togetter.com/li/1112997

 

 

就労とはについて考えはじめた

 

最近は、就労とは…についても考えることが多くなりました。
どうしたら、大人が自分らしくわくわく幸せに働けるのか、そのヒントが逆に、障害者就労支援にあったり。
私も逆に利用者として、こんな素敵なB型事業所で働きたい!と思うこともある。

また、今までは現場にいて描いた理想を一瞬で実践し形にすることができていたけど、間接的になるとそれもまた違ってきておもしろい。
他人がやってることなのに、少しでも自分の価値観や理想とズレると、悔しくて怒りに変わることもある。
自分の理想が正しいとは限らないって分かってるけど、
利用者さんのため、と言われることが、本当に利用者さん視点なのか?とモヤモヤすることも。
そもそも、「仕事だからね、お金もらってるからね…我慢するのが当たり前だよね…」という社会一般常識とのバランスの難しさ。
きっと、理想を持ち続けていく上で、「健常者だって我慢して働いているよね」という風に言われることもあると思う。
一般企業だって、社員のモチベーションや働きがいや生産性などのバランスをとることは難しいと思う。
だからって、このままでいいの?
今だって、ギリギリまで我慢して、自殺する人はいるし、心のバランスを崩してしまう人はたくさんいる。
そもそも、働くとは何か、自分らしくとか幸せにを持ち込む必要があるのか、改めてゼロからスタートしないと。

私の今まで関わってきた大切な子どもたちを、せっかく心に火をつけてきた子たちを、今のままの社会に出せるのか。
想像以上に、出せる場所、地域、少なっ!の衝撃がでかすぎる。
当たり前にやってきた、子ども主体の教育や支援スタイル、自己決定や配慮や強みを生かすなども、就労先では当たり前じゃない。公教育でも当たり前じゃないけど、就労はさらに理想的な認識への溝が大きすぎる。

キラキラな子どもたちが働いた先で、理想とのギャップや環境や関わる人次第で2次障害になってしまったら…ということを想像するだけで、吐き気がする。
診断、教育、就労支援、その先の受け皿がないと、やって意味あるのか…と思うこともある。
ケースワークとして目先の幼児や児童だけ見る危うさを感じた。
つなぐ先が重要すぎる。
でも、良い面でも悪い面も、いったんまずは今の社会の現実を受け入れてみる。
きっとそこからはじまる。

「障害あるなしに関わらず、自分らしく幸せに働くとは何か」も、しばらく学びのテーマになりそう。